明日をつくる教室

夢をかなえた男!努力の歴史

有限会社ライズ・インターナショナル

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徳留 裕敏

取材日 9月 1日

Photo:佐々木 綾香

本日は、ニセコ町のSDGs街区の建物の構造設計を担当している徳留さんにお話しを伺った。

徳留さんは、大阪府四條畷市出身の43歳。

建築関係の資格の中で、最も難易度が高いといわれている構造設計一級建築士で、ニセコ町にセルフビルドした自宅に住みながら、有限会社ライズインターナショナルという構造設計の会社を経営している。

【建築に興味を持ち、1級建築士へ】

徳留さんは、幼少期から高校までを大阪で過ごした。父が大工をしていたこともあり、小さいころから父の工事現場に遊びにいっていたし、ものづくりが面白いと感じていた。それで高校から建築を学び始めた。高校生のときは、学校帰りに父の現場に立ち寄って手伝いもしていた。当時は、部活みたいな感覚だった。「まさに建築部って感じ!」と徳留さん。

大学卒業後、就職活動を行うも、当時はアメリカのITバブル崩壊をきっかけとした世界的な不況の最中で、建築関係の仕事はあまりなかった。なんとか建材メーカーに就職して、木製建具、クローゼット扉、玄関収納、フローリングの開発などに携わるも1年で会社が倒産してしまった。

当時、再就職先を探しても景気が悪く、なかなか難しかった。採用募集があっても、経験者優遇というのがほとんどで、建築業の経験が少ない若者にとってはハードルが高かった。そこで「経験がない分、資格をとろう!」と思い立った。

実家に戻り、父の仕事の手伝いをしながら建築士の資格を取ることに決めた。

毎日、現場の大工仕事をやりながら、1日平均8時間も勉強した。風呂・トイレ・寝る時間以外はすべて勉強にささげた。1年間、盆正月もプライベート時間もなしにした。

当時、一級建築士の平均合格年齢は31歳。受験資格を得られるのが大体25歳頃だから、平均で7年はかかる。徳留さんは、勉強づけの甲斐もあって、実家に戻って2年目には一級建築士をとることに成功した。平均7年分を1年に凝縮した形だ。

徳留さんに、当時を振り返ってもらった。

1次試験合格から2次の設計実務試験までに33作品ほども作品を実践練習した。その努力の甲斐もあって、試験日当日は時間内に無事に課題を書き上げて、かなり自信があった。

しかし、試験後に仲間と打ち上げをしていた時に痛恨のミスをしていたことがわかった。自信があったぶん悔しかった。涙が止まらなかった。

そして、頭の中に不合格がよぎるなか迎えた12月の試験結果発表日。ちょうどクリスマスの時期だ。

その日は、仕事を休ませてもらいPCの前に向かい合った。結果発表が待ち遠しく、更新ボタンを連打した。そして、ページをスクロールしていき、自分の番号があった。合格だった。打ち上げの際に、痛恨のミスと思っていた個所は大きなミスではなかったかもしれない。

「自分の番号を見つけたときには、めっちゃ、うれしかった。」と徳留さん。

【構造設計にはまり、構造設計一級建築士へ】

建築士の勉強をする中で、構造の分野は難しくて当初は避けていた。しかし避けきれず、とことん勉強をするうちに理解できるようになったことが、構造設計を面白いと感じたきっかけだ。できないことができるようになった面白さと言えば良いだろうか。それから、大工の作業の中でも脳だけでなく身体で力学を感じるようになり、構造の理解を深めることができた。「もっと、この分野をとことん突き詰めたいと思った。」と徳留さんは語る。

一般的に構造設計の分野は、建築の中でも大学で構造を専攻した人のなかから、社会に出てからも更に特化して追求する人しかなれないという狭き世界である。徳留さん自身、興味はあったけど構造を専攻していたわけではなかったので、やれないと思っていた。

そんななか、ともに一級建築士を志した“戦友”に相談したところ「やりたいと思ったら遅いということはないよ」と背中を押してくれた。この言葉に勇気をもらい構造設計の分野に進むことに決めた。

構造設計一級建築士は比較的新しい国家資格だ。2005年の構造計算偽造問題(通称、姉歯事件)を受けて、2006年に建築士法の改正によって設立された。

ちょうど徳留さんが構造の分野に挑戦しようと模索を始めたときにこの事件があった。

大阪で構造設計の会社の求人を探したが、この事件の影響もあり、建設業界は不況でなかなか募集がないという状況だったので、東京も視野に入れた。

そして、徳留さんは東京の構造設計事務所で募集を見つけ、札幌の本社に配属されることになる。当時、建築業界は縮小していくなかで、その会社だけは社員倍増計画を行っており、一級建築士を持っていて、構造設計未経験の人を募集していた。まさに徳留さんにピッタリの求人だ。

「縁を感じた。自分自身、都会の人混みも好きじゃなかったし、ちょうどよかった。」と徳留さんは語る。これが、北海道への移住、後のニセコへの移住へのきっかけとなった。

その構造設計事務所で構造を学びながら、本格的に構造の仕事もはじめた。構造設計一級建築士は一級建築士を取得してから、さらに5年の実務経験が必要になる。この会社でストイックに修業したのが活きて、5年後に資格取得となった。当時、北海道内でも合格者は5、6人程しかいなかった。その難関資格を取得して、大きなものでは11階建てのマンションや大空間の店舗など全国の仕事に携わった。

【ライズインターナショナルの立ち上げ、独立】

時間が経過すると、共通の友人を通して、伊達市の鉄工所をやっている社長から「一緒に構造設計の会社を設立しないか?」と声がかかった。徳留さん自身も、これまでの経験を活かして、次のステップに行きたいと感じていたところだったので、いいタイミングだった。不思議な縁も感じた。「自分に務まるか?」という不安はあったけれど挑戦することにした。

【ニセコへのきっかけ、奥様との出会い】

こうして伊達市で構造設計の会社を共同経営することになったが、伊達市で独立したことで、ニセコに住む現在の奥様との距離も近くなった。徳留さんと奥様の出会いは、ニセコアンヌプリスキー場だ。徳留さんと奥様の共通の友人がいたことから、グループで一緒に話したことがきっかけだ。

奥様は、長野県の野沢温泉村出身。奥様にとっては、スキー場に歩いて行けるというのが普通の感覚だったから、住む環境としては、やはりスキー場と温泉があるニセコに!となった。

徳留さん自身も、札幌の構造事務所で働いていた頃にニセコを訪れたことがあり、将来ニセコに住んで在宅で構造設計の仕事ができたらいいなと思ったこともあったそうだ。

これらを知っている友人からは、「すべての夢をかなえた男」といわれることもあるそうだ。

【自宅の建築、NISEKOの家】

徳留さんは、2017年から4年の歳月をかけて、自宅をセルフビルドで建築してきた。最初はキャンピングカーで暮らしながら、土地にある木の伐採・伐根から、ユンボで造成もやった。「家の外装はすでに完成しているので、これからは、週末の合間を縫って内装の建具・収納・造作をやっていきたい」と語る。

建築家は自分の家を建てる時に、自分で全部考えたいという人間と、アイデアが出すぎてまとまらないから、信頼できる他人に任せたいという人に分かれる。徳留さんは、建築の世界に入った時から自分の家は自分で建てたいという想いがあった。

内部は構造躯体が露出という形で、”仕上げなし”という仕上げになっている。自分が構造をやっている人間だから構造を表に出し、隠したくないと思った。柱梁がどのようになっているのか状態が分かるから、メンテナンスもしやすいという面もある。

【夢をかなえた男、次のステップ】

ニセコに移住して、ここで生きていくことを決めたから、今までの経験を活かし、地域に求められる仕事をニセコでやりたい。現在でも、ニセコ町内の仕事を請けられるのはうれしいし、将来的には自分の経営している会社もニセコに移したいと考えている。

【編集後記】

徳留さんの取材を通して、友人からはすべての夢をかなえた男といわれる、その裏にある凄まじい努力に敬服しました。徳留さんは、「目標を決めて走っただけ」といいますが、自分も含め目標を決めても、走り続けられない人が多いのではないだろうか。

やりたいと思ったことに真摯に向き合い挑戦する行動力のすごさを感じた取材でした。

プロフィール
Photo:佐々木 綾香

有限会社ライズ・インターナショナル

徳留 裕敏

大阪府四條畷市出身。有限会社ライズ・インターナショナル専務取締役。構造設計一級建築士。ニセコ町でセルフビルドした自宅に住みながら、構造設計の会社を経営している。SDGsの理念を踏まえた新たな生活空間(モデル地区)を形成する「NISEKO生活・モデル地区構築事業」において、建物の構造設計を担当している。

文責:

宮坂 侑樹

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