明日をつくる教室

縫って、編集して、田舎に住んで ー 経験が紡ぎ出すニセコの暮らし ー

The Mad Hatter, Niseko

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沼尻 賢治

取材日 6月 8日

Photo:佐々木 綾香

ニセコでのリアルな日々の暮らしを知ることができる本、と聞いたら、きっとニセコ地域に住む多くの人が『ニセコの12か月』という書籍をイメージするだろう。この書籍の著者である沼尻賢治(ぬまじり けんじ)さんは、ニセコ町でオーダーメイドの帽子屋を営みながら、編集者、ライターとしても活躍されている。沼尻さんのこれまでの人生や、行動の背景についてお話をうかがった。

沼尻さんが製作された素敵な帽子がズラリ

沼尻さんは神奈川県川崎市の出身。高校卒業後は、東京にある服飾専門学校の文化服装学院に通った。同校卒業後、約10年間アパレルメーカーで働いた。その頃の日本は、1980年代の景気が良い活気あふれる時期で、会社がさまざまな分野に事業を拡大している最中だった。そこでの仕事の中で、営業職から始まり、アート系の仕事やギャラリーの企画・運営など、洋服とは異なる分野の仕事にも多く携わった。

アパレルメーカーを退職したのち、知人の紹介でマガジンハウス出身の雑誌編集者が立ち上げた編集プロダクションに勤めることになった。同社で20年ほど編集の仕事をし、最終的に全日本空輸(ANA)の機内誌『翼の王国』の編集に携わった。日本中、そして世界中の自分が行きたい場所に足を運び、記事の編纂を行った。

ニセコ町への移住と暮らし

沼尻さんの趣味は40歳を過ぎてから始めたスキー。東京で仕事が忙しいときは、スキーを楽しめる日が年間で10日にも満たなかった。「いつか真剣に練習をしなければ、一生きちんと滑れないな」と考え、スキーをするためにニセコを訪れるようになり、本格的にスキーを楽しむようになった。そして、段々と「ここに住みたいな」と思うようになっていった。

また、2011年3月に起きた東日本大震災も、移住のきっかけになった。当時、東北地方で甚大な被害が出たにもかかわらず、東京での自分の暮らしはそれまでとさほど変わらず、自分の仕事が守られ、給料が保証されていることに違和感を感じた。このまま同じ生活をしていていいのか、何かを変えなければいけない、と思った。

東京での仕事や暮らしについて語る沼尻さん

以前にも何度か退職を願い出たことはあったが、許可が出なかった。しかし、その時は退職の許しが出た。心から信頼する上司に退職を認めてもらったことで、きっとそのタイミングなのだと思った。それまでは会社を退職後、東京でどのように仕事をしていくかが問題であったが、ニセコ移住を先に決めたことで、その問題はなくなった。ひとまず編集の仕事からは離れることにした。その後、2012年10月に東京からニセコ町に引っ越した。沼尻さんが50歳の時だった。

ニセコ町を選んだ理由は、何よりも雪が魅力的だったから。ニセコ町に移住した最初のシーズンは、とても雪が多く、なんと100日以上もスキーを楽しんだそう。「10年分取り戻した!と思った」と笑顔で話す沼尻さん。また、グリーンシーズン(春から夏にかけての緑あふれる時期)も気候的に過ごしやすく、農産物などの食べ物も豊かだ。「グリーンシーズンがあるからこそ、冬のシーズンも楽しめるのだと思う」と沼尻さんは語る。

編集の仕事を辞め、収入はそれまでの10分の1にまで減ったが、なんだかんだ生きてこられた。東京では、自分がその時に好きな物事にお金を費やし、消費するためにお金を稼ぐ生活だった。そのような生活も楽しく感じていたが、ニセコ町に来て、暮らしの中で自分が「生きている」ということを、身をもって感じるようになった。「南の地域の緩やかな雰囲気よりも、北の地域の寂しく厳しい雰囲気や環境が好き。そうした環境に身を置いていると、生きている実感が湧く」と沼尻さん。長い冬を終え、春が訪れ、もう生命の危機にさらされることはない!と喜ぶ開拓民の気持ちに思いを馳せながら、沼尻さんは生き生きとした表情で語る。

嬉しそうな表情で北海道やニセコの魅力を語る沼尻さん

帽子屋になるまで

沼尻さんが最初に帽子を作り始めたのは、東京で編集の仕事をしていた頃、ニセコ町に移住した年の5〜6年ほど前だった。沼尻さんの奥様が、ある日友人からもらった手作りの帽子を沼尻さんに見せてくれた。「あれ、これ僕もできるなと思って(笑)」と、ニヤリと笑う。それからミシンを購入し、週末の趣味として帽子を作り始めた。

ある時、大手インターネットオークションのサービスを利用して、初めて帽子の販売を行った。「自分で作ったものがお金になるという経験は大きなショックでした」。沼尻さん自身が、なかなか自分の頭のサイズに合う帽子が見つからなかった経験から、頭のサイズが大きい人向けの帽子を作り始めた。「当時は『ギガヘッズ』という名前で販売していたんです。そのまんまでしょ(笑)」と沼尻さん。ネットオークションで知り合ったお客さんから、自分の頭のサイズに合う帽子を作ってほしいとオーダーの依頼が来たこともあったそうだ。

帽子のオーダー用の素材見本

現在の帽子屋「The Mad Hatter, Niseko」は2013年の4月に開業した。その後初めての受注会を開催することになり、どうやってお客さんと繋がろうかと考えていたところ、友人が周囲の友人や知人を連れて受注会に参加してくれた。地域の新聞に受注会を開催する案内の記事を掲載してもらったことで、これまでまったく繋がりが無かった人が新聞記事を見て訪れてくれた。人の繋がりを実感した出来事だった。その後、知人からの紹介などもあって、さまざまな地域のお店やイベントなどで帽子を販売する機会を得ることができた。

今の帽子屋は、自宅をお店として使っている。移住に際して、最初に自宅となる家を探した時になかなか空きがなく、選択肢がない状況の中で今の家を見つけた。そこからさらに店舗用の家を探すことは難しかったため、今の自宅をお店として帽子を販売するスタイルになった。そこには、「できることからやっていく」という、沼尻さんが大切にしている考えがあった。

お店を開く際の様子を再現してくれました

できることを、何でもやればいい

「芸は身を助ける」という言葉があるが、沼尻さんの今の生活をまさしく表現している言葉だそうだ。洋裁学校に通っていた経験があったからこそ、今こうして帽子屋ができているし、編集の仕事をしていたからこそ、今こうして本の製作や編集の仕事をすることができている。「田舎に移住したら〇〇をしよう、もしくは〇〇はしない、とかではなくて、できることは何でもやればいいと思うんですよね」と沼尻さん。

帽子作りについてお話を聞く

ニセコに移住してきた多くの人は、冬はスキー場関連の仕事をし、夏は農業や林業などの仕事をするライフスタイルを送っている。最初は、定職を持たないというのは不思議だなと思っていたが、今はむしろそれが自然だと思うようになった。

沼尻さん自身も、帽子屋を営み、取材をして原稿を書くなど、自分の職能を提供しそれに対する対価をもらっている。「できることをやればいいんだ、というのが今の自分の正直な気持ち。こういう帽子屋をやりたい、とか、そういった明確なビジョンのようなものは無かった。それがあるなら都会でやればいいんだと思う。でも、自分はニセコでできることをやりたかった」。沼尻さんは穏やかな眼差しで語る。

『ニセコの12か月』にも登場する沼尻家のスパーキー

大切なのはやめないこと

世の中のあらゆることは、「面白そうだね」というアイディアから始まるが、実際にやってみたら面白いでは済まないことがたくさんある。でも、修正を重ねていくことで、段々と形になっていく。それは帽子屋も同じ。色々な生地を扱うし、様々な縫い方がある。季節によってかぶりたい帽子のデザインも変わる。

お客さんから、縫製の難しい素材で帽子を作って欲しいと言われることがあるが、それをただできないと言うのではなく、挑戦するからこそ、今までできなかったことができるようになる。「そうじゃなかったら、そんな難しいことなんてやりたくないですよ(笑)」と朗らかに笑う沼尻さん。「でも、『できませんか?』ってお客さんに聞かれたら、やるしかない。そうやって作って、バリエーションが増えて、そしてたくさん作るから色々な修正が加えられて、かたちになっていく。その繰り返しです」と話す。

東京での様々な経験がニセコでの暮らしにつながっている

「よく『お客さんに育ててもらう』という常套句があるが、それは本当の話だと思う。それと『やめない』ことが大切なのだと思う。途中でやめてしまったら『ダメだった』で終わってしまうけれど、やめなければ、上手くいっていなくてもそれはただ劣勢なだけ。成功へと繋げるチャンスがあるということ。やめなければ常に何かが起きる」と沼尻さん。それは東京で編集の仕事をする中で、沼尻さんが身をもって体験したことだ。新しい雑誌をつくる時、その雑誌には完成形がない。「なんだそれ、と思うテーマでも、手探りながらやっていくうちに何かに当たっていくんです」。

帽子屋と編集者 今とこれから

帽子屋を約10年やってみてどう感じているか尋ねてみると、「何をやるにもまずは10年続けることが大事だと思う」と沼尻さん。

沼尻さんの帽子屋は、リピーターのお客さんが多い。「2回目の注文をいただいたときが一番嬉しい。1回目は興味を持って来てくれても、その時商品に満足してもらえなければ、次はないわけで。2回目の注文をしてもらえた時は、あぁ良かったなと、すごく安心する」と沼尻さん。「高い品質のものを安定して提供できるよう、これからも技術的な成長を続けていきたい」と今後に向けた思いを話す。

『ニセコの12か月』制作の背景

沼尻さんの著書である『ニセコの12か月』について、その制作の背景をうかがったところ、当時の思い出を振り返ってくれた。

「『本を書きませんか?』と依頼を受けた時は、初めてのことだったので、最初は何をどう書いたら良いか分からなかった」と沼尻さん。そんな時友人から「自分の価値観を書いたら良いのではないか」とアドバイスをもらった。「東京での恵まれた仕事を捨ててニセコに行かなければならない理由はなんだったのか、その何らかの価値観が自分の中にあったからこそニセコに移住したわけで、そこを書きなさいと言われたんです」。

沼尻さんの著書『ニセコの12か月』の日本語版(右)と英語版(左)

ニセコを紹介する写真集などは様々な場所で見かけることが多いが、ニセコのリアルな暮らしが分かるような書籍はあまり多くない。同著はそこにフォーカスしている。日本語版と英語版それぞれで出版されており、海外の知人が喜んでこの本ばかり読んでいるという話や、友人に本を紹介したという話も耳にし、とても嬉しく感じている。「ありがたいことに、今はニセコで編集の仕事の依頼をいただく機会も増えてきた。そうした仕事もできる限りやっていきたいし、帽子屋や編集者としての仕事を日々積み重ねながら、ここニセコで生活していけたらと思っている」。

東京で培ってきた経験も生かしながら、日々自然体でニセコでの仕事や暮らしを楽しんでいる沼尻さん。その生き方や考え方に多くの学びを得るとともに、すべての経験が今の自分に繋がっていること、また前向きに未来に繋げていくことの大切さを感じた取材だった。

沼尻さんメッセージ動画
プロフィール
Photo:佐々木 綾香

The Mad Hatter, Niseko

沼尻 賢治

神奈川県川崎市出身。ニセコ町で帽子屋 ” The Mad Hatter, Niseko ” を営む。東京でアパレルメーカーや雑誌編集社での仕事を経験したのち、201210月にニセコ町に移住。自身のニセコでの暮らしを綴った『ニセコの12か月』を201911月に出版。帽子づくりや編集、ライターとしての仕事をしながら、ニセコでの日々の暮らしを楽しんでいる。

文責:

佐々木 綾香

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